大学受験コース理念

1. 受験指導も人間教育も

2014年、大手予備校の1つが校舎の大量閉鎖を発表しました。「少子化に伴う受験人口の減少と現役志向の強まり」が理由だとしています。実際、1990年代に200万人を超えていた18歳人口は今や100万人あまりにまで縮小し、1992年に30万人ほどいた浪人生は、大学全入時代を迎え、10万人ほどにまで減少していると言われています。

 

ただ、大手予備校の衰退の理由は「少子化に伴う受験人口の減少と現役志向の強まり」だけにあるのではないと思われます。スター講師が何百人もの生徒を前に講義を行うという劇場型の授業が時代のニーズに合わなくなったのではないかという指摘もあります。実際、首都圏の学力最上位の中高一貫校生の多くは、有名な大手予備校ではなく、一般にはあまり知られていない難関大・学部専門塾に通っています。学力最上位層の生徒と保護者は、マスプロ化した大手予備校の画一的な指導方法に疑問を持ち、学力最上位層のみを対象とし、難関大・学部の受験に特化した指導に魅力を感じているようです。

 

しかし、後者の塾では、最難関の中高一貫校に合格したばかりの生徒を中学生になる前から青田買いし、難関大・学部の合格のためだけの勉強を6年間させます。中学受験が終わっても、何の疑問も感じることなく、親の指示通りに塾に通い続け、最難関の大学や学部に合格するためだけに勉強をするといったやり方には問題はないでしょうか。超進学校の卒業生のうち、受験勉強をがんばって大学の合格を勝ち取った者ほど、社会に活躍の場を見い出せていないという調査結果もあります。

 

学校化社会あるいは塾歴社会の進展により、「読み書きそろばん」レベルでの学力低下とは別に、学力優秀層の小粒化という事態が生じているという議論は以前からなされてきました。上野千鶴子は私大の教授から東大の教官に転職して、東大生の権威に弱く、依存心の強い姿に驚きます。そして、東大生は、私学の学生に比べて、「的確なまとめができるために、全体として平均値は高いのですが、ただし、オリジナルなレポートが出てくる確率がぐんと低い」と述べています。大学だけでなく、高校も同様の事態に危機感を募らせてきました。麻布高校の氷上前校長は言います。「昔は読書感想文ひとつとっても、公開したいような素晴らしい内容のものがあったのに、今は平板でつまらないことになっている。(中略)昔は馬鹿をやっても、どこかその生徒のきらめきとかオリジナリティーがあって面白かった。でも今の馬鹿は間違いなく何かのコピーなんだよ。(中略)俺たちが考えた馬鹿だぞ、というプライドがなくなっている。馬鹿の質が落ちているんだね(笑)」。

 

しかし、そもそも私立中高一貫校は教育の目的を受験指導だけでなく、人間教育にも置いてきました。氷上氏が「二兎を追う」というたとえを用いてたくみに表現しているように、人間教育なしの受験指導はありえません。氷上氏曰く、「私たちは東大に入るために勉強することは勉強することの真の動機にはならないと考えています。(中略)動機づけの対策としてはっきりしていることは、単純に授業の時間数を増やせばいいということではないということです。」受験勉強に止まらない勉強へのモチベーションを持たない生徒を塾づけにしたところで、よくて凡庸な優等生が量産されるだけです。私立中高一貫校は、氷上氏のことばを借りれば、人間教育によって、つまり「生徒と教員、生徒同士のコミュニケーション」を通じて「感染」する、知へのパッションによって、勉強することの動機を生徒に持たせようとしてきました。受験の成功は、生徒が知的好奇心にかられて勉強を始めた結果にすぎないと考えられてきたのです。

 

また、私立中高一貫校は、手取り足取り生徒の勉強の面倒を見るのではなく、生徒に自分なりの勉強することの動機を独力で試行錯誤して探す時間を与えるべきだとも考えてきました。開成高校の柳沢校長は言います。「教員は、生徒の誰ひとりにも『東大を受けなさい』とは言いません。勉強だけでなく学校生活についても、いちいち指図しません。こうしなさい、あれはしてはいけませんと手取り足取り教えることがいわゆる『面倒見』だとしたら開成は、むしろ『面倒見の悪い学校』です。」「迷うこともことある、転ぶこともある、失敗することもある。しかし自ら立ち、自ら律する力、すなわち自立と自律を育むために必要なものは、自由です。」「『アタマがよい』とは、自分で問いを設定し、聞いたり調べたりし、自分で考えて次の問いへと進むこと。勉強でも、進路などそれ以外のことでも、そうやって自ら切り開いていく力を指します。」中学受験が終わったばかりの段階で親に塾を決められ、親や塾に言われるがままにただ勉強をこなすだけでは、たとえ大学に合格したところで、正解にうまく飛びつくことができるだけの、自立性のない「アタマのわるい」人間になってしまいます。生徒が自分なりの勉強することの動機を独力で見つけ出し、自ら勉強を始めてこそ、受験勉強ができるというだけではない「アタマのよさ」=「自ら考える力」も獲得できるのです。

 

私たちの願いは、生徒が大学に合格することはもちろんですが、その前提として、生徒が、学校生活と受験勉強という二つのルートを通って、知的好奇心が旺盛で、自ら学ぶことができる人間に成長することにもあります。そうした人間こそ難関大学に合格できるだけでなく、社会に出てからも活躍できるはずだからです。

 

 

2. 真の競争とは

東大が推薦入試を導入しました。東大は推薦入試の目的を「多様な学生構成の実現と学部教育の更なる活性化」としています。実施されている推薦入試においてこの目的が達成されているかどうかに関して拙速な判断は避けますが、東大が推薦入試を導入した意図ははっきりとしています。要は、東大は、学生の多くが首都圏の一部の高校や塾の出身者で占められていることに強烈な危機感を感じているのです。親の指示の下で塾に通い続け、親や塾に言われるがままに勉強をして東大に合格した、都会の凡庸な優等生には飽き飽きとしているというわけです。

 

蓮實重彦元東京大学総長は1997年の入学式式辞で述べています。

東京大学の教授として過去3年間本学で教鞭をとられた科学史・科学哲学の世界的な権威が、この3月に停年退職して日本を離れられました。多くの国の大学での豊かな教歴を持つその高名なフランス人の教授は、帰国にあたって、この大学には、10人に2人か3人のわりあいで、世界の超一流の大学のもっとも優れた学生と比較していささかも遜色のない学生が確実に存在していると驚嘆されていました。その教授にとって、10人に2人か3人はいるという優れた東京大学の学生に現実に出会い、彼らを親しく指導しながらその成長を確かめえたことが、この3年間の日本滞在のもっとも意義深い体験だったといわれたのです。これは決して社交辞令ではないと教授は断言されたのですが、あなたがたが入学試験に合格したという事実は、いまここにおられるあなたがたのことごとくが、世界的な競争にたえうる2、30%の優れた学生の一員になれるということをいささかも保証してはくれません。また、その優れた学生たちが、10年後、20年後も同じ優秀さを維持できるという保証もないのです。事実、皆さんがこれからすごすことになる数年間に対して、入試の合格という1つの結果は、ごくわずかなことしか保証してくれないでしょう。いま東京大学の一員となられたあなたがたの真価は、この大学のさまざまな細部にたゆたっている言葉や物と日々親しく接しながら、それとの距離を測定したり、その意味や機能を分析したり、それを批判したりいつくしんだりしながら、それ以前の自分とは異なる何かへと変貌してゆく過程において評価されることになるでしょう。結果よりも過程が重要だというのは、そうしたことにほかなりません。

 

私の経験から言っても、東大生とその他の大学の学生の間にはたしかに学力差がありますが、それとは比較にならないほど残酷なまでの差が、優秀な東大生と凡庸な東大生との間にはあります。きつい言い方かもしれませんが、受験競争を勝ち抜くためにだけ勉強をしてきた東大生は、受験競争の後に続く、さらに苛酷な競争から脱落し、東大という権威にぶら下がっているだけの存在となってしまいます。

 

そこまで苛酷な競争を否定する人もいるかもしれません。しかし、その競争は、いかに苛酷なものであっても、ネガティヴなものではありません。蓮實重彦と同様、ベルグソンを敷衍して言うと、偏差値や学歴などの、目に見える空間化された結果を求める競争と目に見えない時間的な過程における競争とを混同してはなりません。結果=相対的な差異を求めての競争がペシミスティックで、スタティックなものであるのに対して、過程における競争においては喜ばしき変化が絶対的な差異として生きられます。蓮實重彦が挙げている例を使えば、スポーツを行うのは、結果だけでなく、「自分のからだがふと未知の柔軟さを獲得し、とうてい不可能と思われていた限界を嘘のようなたやすさで超えてしまう瞬間に1人のスポーツ選手をとらえる充足感」を求めてのことでしょう。

 

私たちが生徒に受験勉強をさせる目的は大学への合格はもちろんのことですが、むしろそれ以上のところにあります。それは、生徒が知的好奇心にかられて、自ら学ぶことのできる人間に成長することにあります。そうした成長こそが難関大学への合格の最短ルートであるでしょうし、そうした好奇心のある人間だけが大学入試より苛酷な競争に参加し続けることができるでしょう。

 

3. なぜ受験は必要か

かつて東京大学への入学者は公立高校出身者が独占していました。ところが、自治体による学校群制度(学校群内各校の学力が均等になるように合格者を割り振る制度)の導入以来、公立高校は凋落し、私立高校が東京大学合格者ランキングの上位を独占するようになりました。しかし、苅谷剛彦「大衆教育社会のゆくえ」によれば、東大生の出身高校が劇的に変化したにもかかわらず、東大生の保護者の職業構成はほとんど変わりませんでした。つまり、東京大学に合格できたかどうかは、どの学校に通っていたかによってではなく、親の階層(専門・管理職)によってあらかじめ決定されていたと考えられます。一般化すれば、学歴=偏差値は出身階層によってあらかじめ決定されていると言えるでしょう。

 

ところが、学歴=偏差値至上主義は、他ならぬおのれを批判する言説によって、おのれの出自を隠蔽し、おのれを正当化してきました。例えば、受験勉強は役に立たない知識の暗記にすぎないという典型的な<学歴=偏差値至上主義>批判は、努力して知識を暗記しさえすれば、受験で成功し、階層を上昇できるチャンスが万人に開かれていると解釈される余地を残します。そして、実際、そのような解釈を通じて、知識偏重の受験勉強を批判する言説は、学歴=偏差値が出身階層によって決定されているという現実を隠蔽し、学歴=偏差値の価値を高めてきました。あるいは、学歴=偏差値至上主義は次のようにも批判されてきました。どの子どもにも無限の可能性があるのだから、誰でもがんばれば成績が上がるのに、偏差値による序列化は偏差値の低い子どもから学習意欲を奪い、子どもに与えられている可能性の芽を摘んでしまう、と。ですが、教育を通じて生まれ変わるチャンスは誰にでも開かれているという、こうした<学歴=偏差値至上主義>批判もまた、結果として、あらゆる階層の人々をますます受験競争へと駆り立てることになりました。学歴=偏差値至上主義が現実から遊離したイデオロギーにすぎないのだとしても、哲学者のスラヴォイ・ジジェクが言うように、イデオロギーは、批判的に距離を取られることによって克服されるよりむしろおのれの支配を貫徹するのです。

実は、学歴などもはや誰もあまり信用していません。学歴社会は、旧帝大より首都圏の私立大学の偏差値の方が高くなった時点で、ある意味で、とっくに機能不全に陥っています。どの大学に行くかということよりも刺激的な都会生活の方に価値を見い出すのが現代人の心性(メンタリティー)でしょう。しかし、現時点では、学歴=偏差値に取って代わる、正しい評価基準など存在しないというのもまた事実です。現在進行中の教育改革は、学歴=偏差値至上主義に対する行政の側からの不信の表明なのですが、おそらく失敗に終わるだろうと思われます。例えば、行政は、推薦入試枠やAO入試枠の拡大によって、学力のない(偏差値の低い)者にも大卒の資格を与え、学歴=偏差値による序列化の是正を図ろうとしましたが、一般入試の定員を減らして、見かけの偏差値をつり上げる偏差値操作が常態化しただけでした。学歴=偏差値至上主義は死に体のまま生き延びることでしょう。

 

したがって、まずは、学歴=偏差値至上主義を観念的に批判するよりも、その存在をリアルなものとして認識すべきです。その上で、現代社会のイニシエーション(通過儀礼)として、<学歴=偏差値による序列化>=受験という試練をくぐり抜けるしかありません。そうしないと、結局は、社会で通用する人間にはなれませんし、学歴=偏差値による序列化から自由になる可能性もつかみとれないでしょう。ジジェクも言うように、イデオロギーにとって破壊的なのは、イデオロギーから批判的に距離を取ることではなく、イデオロギーを信じることなのです。

 

受験は必要でしょうか? もちろん必要です。しかし、それは、偏差値の高い大学に受かるためでも、知識を増やすためでもありません。そうではなく、社会には差異が存在するという現実にわずかながらも触れるためにです。受験は、生徒が社会の現実の一端に触れ、受験より厳しい競争に参加するための出発点として必要だと考えるべきでしょう。ただ、そのためには、学歴や偏差値には意味があるのだというイデオロギーを信じて、受験勉強に努めるしかありません。

(注)
親の属する階層と子どもの学力の関係が隠蔽されるようになった代わりに注目されるようになったのが子どもの育て方です。しかし、「日本人のしつけは衰退したか」(広田照幸)も論じているように、子どもの育て方が重要だという認識を親が持つようになったのは比較的近年でしかありません。子育て論の近年の流行にはイデオロギー的なものが感じられます。

 

4. ポスト予備校時代の塾:伊藤和夫の予備校批判

伊藤和夫という人物をご存知でしょうか? 受験英語参考書の「バイブル」とされる『英文解釈教室』と『ビジュアル英文解釈』を書いた駿台予備校の元講師です。

 

一般的には、『ビジュアル英文解釈』は『英文解釈教室』の簡易版だと見られています。しかし、やはり元駿台講師で、哲学者の入不二基義(「二つの頂点―『英文解釈教室』と『ビジュアル英文解釈』―」)も指摘するように、前者から後者への移動にはそれ以上のものが賭けられていたように思えます。

両者の関係を論じる前に、そもそも伊藤和夫が何を行ったのかを明らかにした方がよいでしょう。

 

伊藤和夫以前の英文解釈と言えば、与えられた短文を分解し、公式を当てはめて和訳を行うという方法が主流でした。伊藤和夫が画期的だったのは、入試問題の長文化に対応して、英文を左から右へという流れのままに直読直解する方法を具体的に提示しえたところにありました。

 

私たちは、母語で言語活動を行うとき、通常、言語の形式的側面には意識を向けず、内容的側面に集中します。言語の形式的側面をいちいち意識していては、言語活動は不自然でぎこちないものとなってしまいます。ですが、他者への意思伝達を可能とするためには、言語の形式的側面=約束事に依拠せざるをえません。母語が無意識に習得されるのに似て、言語の形式的側面は、言語活動の最中、無意識の「ブラックボックス」に沈み込みながら、自然な言語活動を支えているのです。

 

ただ、第二言語を幼児期以降に習得する場合には、「ブラックボックス」内部の配線が意識的に作られる必要があります。「読書百遍、義おのずから通ず」というやり方では効率が悪すぎます。では、「ブラックボックス」内部の配線はいかに作られるべきでしょうか?

 

言語は、通常、時間の流れの中で線的に展開していきます。したがって、言語を使用するためには、線上の点=単語だけでなく、点と点の結びつき方、たとえば、単語の複合体である熟語や単語と単語の関係を支配する法則=文法を習得しなくてはならないと考えるのは当然のことでしょう。実際、英文解釈の参考書は熟語集から始まり、文法的なアプローチを採るものへと進化してきました。しかし、外国人が熟語と考えるものがネイティブにとって熟語として認識されているとは限りませんので、熟語の公式化は恣意的なものとならざるをえません。また、文法は、線的に進行する言語を俯瞰的な視点から眺め、その法則を抽象化したものにすぎませんので、言語を実際に使用するための道具とはなりえません。私たちは、たとえば、英文を読む/聞くとき、文の最初から出発してそれを進行方向にたどっていきます。だとすれば、文を理解するのに重要なのは、”Reading books…”で文が始まったとき、それが、

Reading books gives him great pleasure./Reading books, he sat there.

のどちらであるかを識別することです。”Reading books…”は分詞構文であるという文法的な説明は英文を読む/聞く役には立ちません。必要なのは、既知の部分に基づき、未知の部分を予想しながら前進していく、方向性を持った線状の活動である言語活動のための文法です。

 

『英文解釈教室』と『ビジュアル英文解釈』の関係に話を戻します。伊藤和夫は『ビジュアル英文解釈』の執筆動機を次のように語っています。

 

筆者が1977年に出した『英文解釈教室』にこのような視点が全く欠けていたわけではない。…しかし、「直読直解への具体的な方法の1つの提示」と名乗るにはこの本は徹底性を欠き、線の方向性にこだわることによって開かれる展望がいかに豊かでありうるかについての見通しもなかったこと、それが20年の歳月を通してふり返った場合の筆者の最大のうらみであった。

『解釈教室』の執筆当時、筆者は従来の参考書と異なった総合的視点と説明の論理的方法を発見したという喜びまたは思い込みに夢中で、研究論文を書くことと、学生向けの参考書を書くことのちがいがわかっていなかった。従来から重要とされてきた構文や、その存在に気づかれていなかった構文のいかに多くが、「新しい」観点により統一的体系的に説明できるかを誇示することに熱中するあまり、それが果たして学生に必要であるかどうかに思いいたらなかったのである。(『予備校の英語』)

 

線の方向性にこだわること、つまり言語使用者の視点に立つことは英文解釈法に革命を起こしたという以上の根本的な態度変更を必然的に要請します。言語使用者にとって「ブラックボックス」内部の配線の意識化は目的ではありません。最終的には、「ブラックボックス」は無意識の中に沈まなくてはなりません。意識化されたものを大量の反復練習を通じて血肉化する必要があります。『英文解釈教室』が「ブラックボックス」内部の配線を教師が統一的体系的な視点から意識化したものだとすれば、『ビジュアル英文解釈』は「ブラックボックス」内部の配線を生徒が必要に応じて意識化するのを手助けし、意識化されたものが無意識に沈むのに不可欠な反復練習の場を生徒に提供したものだと言えます。

 

以上のような『英文解釈教室』から『ビジュアル英文解釈』へという伊藤和夫の著作が描く軌跡は予備校の歴史と部分的に重なります。予備校の全国展開を支えるため、また、自らの生き残りをはかるため、受講生の数を増やさなくてはならないスター講師は「テクニック」を使って受講生を魅了する必要がありました。三大予備校が全国に群雄割拠し、競争が熾烈を極める中では、ジャン・ボードリヤール風に言えば、教育の使用価値(生徒の学力を上げるために、教師が教育を施すこと)以上に、その交換価値(消費者を魅了するための、予備校講師のテクニックの微小な差異の戯れ)が消費の対象となったのです。そこで、例えば、講師が英文1文1文をさまざまな記号を駆使してわかりやすく図解する一方で、生徒は講師と同じように英文の分析を行うだけで英文が読めたと満足してしまうといったような授業が生まれました。こうした事態の責任の一端は『英文解釈教室』の成功にあります。そもそも予備校のスター講師のシステムを完成させたのが伊藤和夫です。その一方で、『ビジュアル英文解釈』は、『英文解釈教室』での体系化の作業の果てに、予備校のスター講師中心のシステムとは異なる、個々の生徒のその時々の必要を中心に据えた、脱中心化されたシステムを暗に構想しえた点で、凡百の予備校批判よりはるかに内在的に予備校を批判できていると言えましょう。

 

ですが、現実には、伊藤和夫の批判からは微妙に外れる軌跡を描きながら、予備校は受験生の現役志向と塾のニッチ化によって衰退していきます。たしかに、百貨店ばりにいろいろな講座を取り揃えた万人向けの予備校より小規模なブランド化された専門塾(医学部進学専門塾や東大専門塾など)の方が大学全入時代の消費者の目には魅力的に映るのでしょう。他方、スター講師のシステムは予備校の映像授業の中で、消費者(学校が忙しい現役生)の選択に便宜を図ることと引き換えに延命されます。しかし、消費者目線に立つことは生徒目線に立つことと同じではありません。ニッチ化とスター講師の授業の映像化は消費者の細分化された欲望に応える形で予備校を延命させたにすぎません。伊藤和夫の予備校批判を徹底させることを通じてのみ、ポスト予備校時代の塾のあり方を模索することが可能になるはずです。

 

 

5.教育改革の正体

教育産業は、いわゆる「ゆとり教育」は批判しても、看板が付け替えられただけの「教育改革」は批判しません。批判しないどころか、その音頭取りをしている始末です。「教育改革」という官民挙げてのお祭り騒ぎは、平成に行われた無数の「改革」というお祭り騒ぎと同様、たんなるバブルにすぎません。たんなるお祭り騒ぎならば勝手にさせておけばよいのですが、困ったことに、バブルの崩壊には犠牲者を伴うのが常なのです。

さて、行政は、教育改革の名の下に、受験競争の圧力の下での詰め込み教育を否定し、自学自習を重視した子ども中心主義の教育への転換を進めています。しかし、一見正しいように見える行政の現状認識や政策転換は適切なものなのでしょうか?

まずは、過度な受験競争や詰め込み教育といった現状認識が妥当なものなのかどうかを検討しましょう。ある調査結果によれば、受験地獄と言われた時代でさえ、四当五落と言われるような睡眠時間をギリギリまで削った受験勉強をしていた受験生はほとんどおらず、ほとんどすべての受験生が十分な睡眠を取っていたようです(苅谷剛彦『教育改革の幻想』)。また、アメリカの教師より日本の教師の方がドリルを使うような機械的な反復学習に頼ることが少なかったという報告もあります(同上)。行政の現状認識には疑問符が付きます。

次に、子ども中心主義の教育について検討してみましょう。子ども中心主義の教育は戦前の成城小学校のドルトン・プランを始めとしていくつもの実践例がすでに存在しています(小針誠『アクティブラーニング』)。ですが、そうした自学自習を重視した実践は学習意欲の低い子どもたちの一層の学力低下を招いたことが多かったようです。苅谷剛彦は、子ども中心主義が学習意欲の高い「強い個人」を前提としてしまっていると指摘しています(『階層化日本と教育危機』)。子ども中心主義の教育は無条件に肯定されるべきものではなさそうです。

では、専門家からの反対意見が多い政策転換を強行する意図は何でしょうか?教育改革の意図を探るために、英語教育の改革についても見ておきましょう。

文部科学省は英語教育の改革を行う背景を次のように説明しています。

急速なグローバル化の進展の中で、1人1人にとって、異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になり、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって極めて重要です。

ところが、寺沢拓敬が『「日本人と英語」の社会学』で実証的に論じているように、日本において仕事での英語使用を必要としているのは日本人全体の1割以下で、「グローバル化の進展」により仕事上の英語使用が増えているとも言えません。やはり行政の現状認識には疑問符が付きます。

また、コミュニケーション重視の英語教育が、英語でのコミュニケーション能力を上げるどころか、文法や読解を軽視した結果、英語力そのものの低下を招いているのではないかという指摘が現場の予備校講師や大学の講師からなされています(伊藤和夫『予備校の英語』、阿部公彦『史上最悪の英語政策』など)。政策転換の妥当性も疑った方がよさそうです。

さて、やはり批判の多い英語教育の改革が強行される意図とは何なのでしょうか?寺沢拓敬が元大阪市長の橋下徹の発言を引用して興味深い分析をしています。

アジアで英語をしゃべれないのは日本人だけ。僕も国際会議に呼ばれる。中国人も韓国人もベトナム人もタイ人も英語べらべら。僕だけ通訳がついている。みんなゲラゲラ笑いながら英語で会話している。僕は通訳入っているから1分後にゲラゲラ笑う。何でこんな人間になってしまったのか。日本の英語教師が英語をしゃべれないからだ。総入れ替えしたらいいが、教員組合は認めない。放置していたのは自民党政権じゃないか。(自民党政権に)もう一度戻すのか。僕は嫌だから、日本維新の会を立ち上げた。

ですが、データによると、「アジアで英語をしゃべれないのは日本人だけ」という現状認識は間違っています。日本人はアジア人の中で特別に英語ができないわけではありません。あえて言えば、各国のエリート層だけを比較すると、日本のエリート層はどちらかと言えば英語下手だと言えるかもしれません。ですが、それは「日本の英語教師が英語をしゃべれないから」ではありません。もちろん「教員組合」のせいでも「自民党」のせいでもありません。

日本の英語の達人は現在よりもはるかに劣悪な学習環境で超人的な努力によってネイティブ以上の英語力をつけてきました(斎藤兆史『英語達人列伝』)。例えば、日本英学会最大の巨人とも呼ばれる斎藤秀三郎は、一度も海外に出たことがありませんでしたが、シェイクスピア劇を演じる英国人役者に「英語がなってない」と英語で罵声を浴びせかけたというエピソードを残しています。当たり前の話しですが、英語ができるようになるためには努力する必要があります。環境を変えたところで、努力しなければ、英語は身に付きません。日本のエリート層が英語下手なのは環境のせいではなく、努力をしなかっただけです。

では、なぜ日本のエリート層は英語力をつける努力をしてこなかったのでしょうか?それはその必要性を感じなかったからです。ですが、だとすると、日本のエリート層は必要のない改革を推し進めようとしているということになります。それはなぜでしょうか?竹内洋が論じているように、選抜システムの「勝者」は、「敗者」が不満を持たないように、おのれを「勝者」にしてくれた当のシステムを批判します(『日本のメリトクラシ―』)。勝者は、勝者であり続けるために、自らを勝者にしてくれたシステムを否定する振りをする必要があります。勝者は、システムを改革しようなどとは露ほども思っていないのに、勝者の嗜みとしてシステムを批判するのです。

しばしば指摘されるように、祭りは共同体のガス抜きでしかありません。教育改革という名の祭りにはテキトーに付き合うのが賢明でしょう。

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教育は国家百年の計と言われます。中国の春秋時代の政治家、管仲が述べた「一年の計は穀を樹うるに如くはなく、十年の計は木を樹うるに如くはなく、終身の計は人を樹うるに如くはなし」に由来する言葉です。人を育てることは大事だ、という考えにさしあたり異論はありません。しかし、管仲の言葉から教育改革の必要性を論理的に導き出すことはできないはずです。にもかかわらず、そうしたことができるとすれば、教育改革の必要性が自明のものと考えられているからにほかなりません。ここでは、政治哲学者のハンナ・アーレントの議論を参考にして、教育改革の必要性についてあらためて考えてみましょう。

アーレントによれば、古代ギリシアでは、市民が政治的活動を行う公的領域と家族によって生命の維持と再生産が行われる私的領域とが明確に区別されていました。それに対して、近代においては、公的領域が失われ、家族における生命の維持と再生産だけが公の関心事となります。アーレントはこのことを、私的なものでも公的なものでもない社会的領域の出現と名づけました。哲学者のフーコー=アガンベンの言葉を借りれば、古代ギリシアではビオス(政治的な生)とゾーエー(生物学的な生)が明確に区別されていましたが、近代においては政治(生政治)がゾーエーを統治することを目指すようになります。近代国家、とりわけ福祉国家においては、近代以前の死を与える権力とは異なる、生きさせる権力(生権力)が表舞台に登場するようになります。

近代においては、公的領域が消失し、子どもを生み育てるということが公の関心事となります。大人は、世界を変革しようとする時、失敗を覚悟で他の大人を説得すること、つまり政治の代わりに、子どもの教育のあり方を改革しようとするようになります。この点だけに限れば、ポル・ポトのような革命運動もわが国の教育改革も変わりありません。

近代において、教育は失われた政治の代償として過剰に現れるようになります。いわゆる学力低下は、かりにそうしたことがあったとしても、それは教育の不足からではなく、教育の過剰から生まれたものだと言えます。わが国の教育改革は、教師に特定の専門科目の知識ではなく、教育方法(わかりやすく、楽しい授業をする方法など)に習熟させ、子どもに死んだ知識ではなく、生きた知識の活用(技能)を教えようとする方向に進んでいます。しかし、教え方の上手い下手ではなく、子どもが知らない世界を知っていることこそが教師の権威の源だったのではないでしょうか? 教え方が上手いだけで、知へのパッションに取り憑かれていない教師からは、かつてはあったかもしれない権威が失われてしまいます。また、知識の学習を技能の習得に取って代えることは、学習を大人の世界への準備ではなく、幼児レベルの遊びに近づけることになりかねません。外国語教育の改革に対するアーレントの批判は今でもそのまま通用します。

学習を実行に代え、そして仕事を遊びに代える――この2つの事柄の間に密接な関連があることは、子どもは話すことによって、つまり実行によって学ぶべきであって、文法や構文を勉強することによって学ぶべきではないとする言語教授法に直接示されている。いいかえれば、子供は幼児の頃、自らの国語を学んだのと同じ仕方で外国語を学ぶべきだというのである。あたかも、遊びながら、自らの単純な存在の途切れることなき連続性のなかで言葉を学んだように。このことは、外国語が話されている環境に子供が終日おかれる場合にかぎり、ある程度可能である。しかし、これが可能かどうかはさておき、この手順が年長の子供を可能なかぎり幼児のレヴェルにとどめようと意識的に試みているのは紛れもない。子どもの世界の自立性を選んだために、子供に大人の世界への準備をさせるべき事柄、すなわち、遊びではなく仕事の習慣を徐々に身につけさせることそのものが、放棄されているのである。(「教育の危機」)

アーレントによれば、教師は、私的領域とは明確に区別される公的領域の代表として、子どもを公的世界に導くがゆえに権威を有します。ただし、アーレントのいう公的領域とは「幻想の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)である国家のことでも失われた伝統的共同体のことでもありません。家族や共同体といった私的領域を離れた、諸個人が言論を通じて相互に関係を持つ場のことです。政治とは、職業的な政治家による立法行為ではなく、独立した市民たちによる対話的活動を意味するのです。したがって、教師がまずなすべきなのは、私的領域を離れた個人として自ら公的領域に現れ出ることであって、それができないことの代償行為としての教育ではありません。

世界への新参者である子どもの役割は古い大人の世界を更新することです。それに対して、大人の役割は、自分たちの古い世界を刷新してもらえるように子どもを導くことです。子どもの未来のためと言いつつ、自分たちの古臭い夢を子どもに押し付けることではありません。未来を生きることができるのは子供だけなのです。子どもの代わりに未来を設計しようとすることは、その意図が何であれ、子どもの未来を奪うことにしかならないでしょう。

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海老原嗣生が『学歴の耐えられない軽さ』で詳しく書いているように、早稲田・慶應を始めとする私立大学は、自らの偏差値=ブランドの維持のために、推薦・AO入試経由の学生の割合を大幅に増やし、その分、一般入試の定員を削減しています。新学部の増設、センター利用入試の導入等の入試形態の多様化も、定員削減によって、見かけの偏差値を釣り上げるためだと思われます。

偏差値の弊害を是正するために進められている入試改革が、逆説的にも、一層の偏差値のブランド化をもたらしているのです。なぜこうしたことが起こるのでしょうか?

濱口桂一郎の『若者と労働』の議論を使って、日本の学校教育と雇用システムの関係を整理しておきましょう。

日本以外の先進国の企業は、必要なときに、必要な資格、能力、経験のある人を、必要な数だけ採用する欠員補充方式をとっています。仕事の内容、範囲、責任、権限、職種別の賃金(職務給)などを明確に決めて、それに人をはりつけます。よって、新規学卒者は、企業に採用されるために、学校で適切な職業教育を受けて、仕事に必要な資格や能力を身につけておかなくてはなりません。大学は、入学するのはそれほど難しくはありませんが、カリキュラムはハードで、卒業証書が具体的な職業と密接に関連した職業能力を証明するものだと考えられています。

反対に、日本の企業では、まず新卒定期採用方式で人を決めて、それに賃金(職能給=初任給+定期昇給)や仕事をはりつけます。重視されるのは、就く可能性のある様々な仕事について、仕事をこなす中でできるようになっていく潜在能力(職務遂行能力)、つまり地頭のよさです。教育関係者の多くは、職業教育のような産業界に奉仕するための教育は望ましくなく、真理の探求や人格の形成といった教養教育こそが理想の姿だと考えています。しかし、企業にとって、学校は余計なことをせず、企業内人材養成に耐えうる地頭がいい人材を提供してくれればよいのです。このように学校と企業の利害がねじれた形で一致することによって、地頭のよさ=偏差値という一元的序列で若者が評価されるようになったのです。

要するに、日本型雇用システムが偏差値制度を必要としているのです。したがって、入試を改革するだけでは偏差値のブランド化を食い止めることができません。

教育改革も、日本型雇用システムを前提としたままでは、不毛なものにしかなりえません。たとえば、濱口桂一郎が指摘するように、教育改革が強調する「人間力」、「生きる力」、「コミュニケーション能力」は、企業が重視する職務遂行能力に近いものですが、もともとは、入社してから上司や先輩の指導のもとでOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)を繰り返していくことでじわじわと身に付けていくものでした。ところが、バブル崩壊以降、日本企業は、少数精鋭化された正社員の新卒一括採用、年功序列、終身雇用を維持するため、非正規雇用の割合を増やす一方で、本来は企業が行うべきOJTを学校教育に丸投げして、即戦力の労働者を求めるようになりました。人間力やコミュニケーション能力などが、入社時点で求められるようになったのです。しかし、就活時点で示される人間力やコミュニケーション能力など、せいぜい就活のためのスキルでしかないはずです。学校を企業の下請けにするだけでは、改革ではなく、従来のシステムの縮小再生産にしかならないでしょう。

どういった仕事をしているのかではなく、どの会社に入ったかが評価対象とされるような社会のあり方には手をつけず、入試システムや教育システムだけをいじるという安易なやり方がうまくいくことはないでしょう。